さて、真実のうちにはたくさんの物事や出来事を包括的にとらえた抽象的な物事もあれば、目の前の一つの瑣末な事象に着目したものもあります。
そのどちらもに共通するのは、それが現実に起こっているという事。
すなわち、現実のどこかに対応する写像が存在し、それによって思考と現実を対応させることができるという事です。
どうも、ぶっくはっかーです。
今日は、面白い意見があったのでこれに関してコメントをしてみたいと思います。
コレですね。
何でみんな神様の意思の反することをしてるの?
そりゃぁ、もう自然に生きていたら、ながされるままになすがままに自分の生活を送ってしまいがちな現代においては、この人の言うように生きていくことができる人は少ないでしょう。
しかし、すくなくともこの人の言う事は真実です。
つまり、この人が規定している"神"という概念は現実に存在するものであると言えると思います。そして、その概念は、確固として存在するゆえに人間を困らせます。
この人が言うところの神というのは"相対性"の概念であると言って問題ないでしょう。
つまり、彼の視野というのは非常に広いものになり、より広範にあたりを見回すことができる。だから、有る事象において、自分の立場を考える時、同時に他者の立場やほかの事象の立場を想定しながらものごとが勘案できる。
結果として、その思考も一般の人にはなかなか理解できないものになってしまう。
思考方法は全く間違いではないのですが、多くの人にはその考えは理解されないでしょう。なぜなら、パラメータの数がほかの人よりも多いため、多くの変数を扱う事が出来ない人にとっては、答えが分からないことだからです。
数学に例えるとわかりやすいです。
x一つなら求められるけれど、yが出てきた瞬間に計算ができなくなる。
そんな人も世の中にはたくさんいます。主には計算方法を知らないだけですが、中には本当に計算能力や思考能力が欠如しているためにそうした答えが得られない人がいます。
そして、意外とそういう人はたくさんいるのです。
そうした人たちと、この人たちの違いをもっと簡単に言うと、この人は相手の気持ちを常に考えることができるという事です。
そして、自分に都合のいいことを受け入れると同時に、自分に都合の悪いこともきちんと甘んじることができるという点です。
これはつまり、メリットに対するリスクやデメリットをしっかりと自分が認識すると同時に、それを受け入れる必要があるという事です。
自分が受容しているメリットにはかならず、暗黒面が存在するはずなのです。
現実の世界において、上位互換が存在する場合は非常に少ないでしょう。
何かのメリットを生み出すために、同時に何かのデメリットも生み出してしまう事が多い。
この時に、きちんと自分自身の視点だけに立つのではなく、ほかの人間や存在が同じ事象をどのようにとらえるのだろうかと、そのような視点も必要になるのではないでしょうか。
しかし、この人の視点はこの次元で終わってしまっている。
全てを勘案するだけの視点では結局何も得ることはできない。
本当は、全てをキチンと飲みこんだ後で必要なものだけを取り出して取捨選択をしていく作業が必要になるはず。
キチンとこれからを生きていくつもりならば。
もっとも、これを書かれた方はご高齢という事もあって、そういうことならばこれだけの境地にあるというのはあるいみ合理的というか、非常に納得のいくところでもあります。
全てを受容するという事は、すなわち恐れや、死をも受容するという事です。
つまり、そうしたものに対する準備をしているわけです。
しかしながら、まだまだ人生が長い人にあってはこうした「なんでものみこむ」やりかたがはたしてその人の人生を総合的にいい方向に導くかというと全然そんな風には思えないのです。
"相対性"という名の神様と、昔の人は非常にうまく付き合っていました。
今の私たちはどうでしょうか?うまく付き合えていると言えるでしょうか。
さらに言えば、より論外なのは"相対性"から逃げて、絶対性の幻に頼っている、いわゆる"宗教"にのめりこんでいるひとたちです。
相対と違って厳密な"絶対"は、この世には存在しません。
絶対だと思っているものは、実は"前提条件"や"基準"の存在を前提とした、相対にしか過ぎないのですから。そして、この生き方は、メリットのみを受容しデメリットからは単純に目をそむけただけの生き方です。
短期的には何の問題も起こりませんがいずれ、メリットを消費しつくし、自らが蓄積したデメリットの波にのまれるでしょう。
そうならないように生きていきたいものですが、世の中の人間はみんなそんなに賢くないですよ。おれっちを含めてね。
非常に抽象的で分かりにくかったかもしれません。
ごめんなさい。